タイトル作品 「晩秋の蓮池」 F60横X2 2022リメイク(鎌倉) 鶴岡八幡宮の蓮池 秋の日
白崎博 作品集
開設
2022/11/10
更新2024/7/7(2,362)
1:最近の個展等
2:作品紹介
3:作品紹介
4:京都時代
5:草花など
6:作品紹介
7:作品紹介 更新
第24回環展出品作品
8:NEW聚富だより@
早春 2024/4/18
9:NEW聚富だよりA
春 2024/5/17
僕が思うこと
専攻科当時、直接指導を受けた教授陣に小嶋悠司、石本正、秋野不矩がいた。
とある合評会の折、立てかけてあったパネルを裏にし、コンテで足を左右に大きく広げて走る馬の様子を「こう見えるんだよね」って嬉しそうに描いて見せてくれた。
舞子が創画会に登場しようとする頃で、フレスコやロマネスク期に傾倒していた時期だったと思う。
作家としてのものの見方や考え方であり身をもって生き方を教え伝えてくれていたのかもしれない。あこがれ尊敬する先生方や先輩達を間近に見て必然的に僕も創画会に出そうと思った。
高山辰雄も石本正も芸術新潮で大きく取り上げられ示唆に富む寄稿が多かった。
日本画界の中心的存在であったにも関わらず違う位置から描こうとしていたのだろうか。
ジャンルや古今東西超えて「絵とは何だろう」という求道者的な信念のように思う。
そしてそれから半世紀経った現在も、僕には誰よりも高山辰雄と石本正の目を大事にして描いているつもりだ。
迷ったり無聊になった時、高山辰雄と石本正の本・画集を開く理由でもあるだろう。
深く穴を掘るには幅がいる」…専門分野の伸ばし方として
―書家東志青邨先生より教わった言葉―
とある会議で、人材開発の問題─能力の専門化(スペシャリスト)と総合化(ゼネラリスト)に関する議論が行われたときの事です。スペシャリストというと、とかく「狭く深く」、ゼネラリストというと「広く浅く」という視点で語られるが、それはおかしいと土光氏。専門家が深く進むのは当然だが狭くなるとは不可解だ。本当に深まる為には、隣接の領域に立ち入りながら、だんだん幅を広げて行かなければならない。深さに比例して幅が必要になる。
つまり真の専門化とは深く広くすることだ。
そうして、この深く広くの極限が総合化になるのだ。
独りで絵を描いていくことは決して容易なことではない。この地面に穴を掘る例えが僕にはとても腑に落ちてああそうなのかと思う。絵描き(というスペシャリスト)はシャベルやスコップ(絵具や筆)を持って自らこれという地面に穴を掘るようなものかもしれない。手の届く範囲であれば作業も容易だろうが、さらに深く掘ろうとすると途端に窮屈でどう掘るか悩む。そしていつか、穴を広げながらより深く掘っていることに気付く。
まっすぐに掘り進められなかったら穴は中心を反れ、いびつな縁や穴ができる。
そういう絵がいいとは思えない。
真っすぐに掘り進めようとする意志や努力があって初めて「穴を深く掘る事」という意味になるのだろう。
もう一つはその地面だ。深く掘るために周囲を削りながら掘っていく。
今まで意識することもなかった周囲を初めて理解することになる。それが「幅を広げる」ということなのだろう。
今まで未知だったものが「知」として自分を広げてくれる。
「穴を深く掘る事」と「周囲を広げていく事」この二つが相関して自分を成長させてくれる。
僕にとって「絵を描く」とはそういうことなのだと思う。
白崎博略歴
■1950 美唄市生まれ
■公募展・団体展
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聚富しっぷ
石狩市厚田区を形成する地域のひとつ
厚田区の最南端に位置しその先は浜益村へと続く。
2020.3.31
厚田小中学校閉校に驚く。校舎前の脇道から進んで田圃に向かう
小路は、今も変わらず僕が車をとめ時間を過ごす写生地でもある。
ハクチョウの群れが田を覆い早春の空を舞う頃から、花を咲かせ
実をつけ、晩秋から雪にすっかり覆われる冬にかけて、僕はずっと
ここを見続けてきた。そしてこれからもここで描き続けるだろう。